103系電車の歴史

01 101系電車の失敗

ホーム  

作ってみたが走れず

 国鉄が1957(昭和32)年に高性能車として登場させたモハ90形(のちの101系)は、電力事情などのインフラが整備されていなかった事から設計通りの性能を出す事が出来ず、オール電動車編成でも限流値を大きく下げて当初加速の7割程度しか出す事が出来なかった。よって高加速・高減速・高速というもくろみはもろくも崩れ去ったのだが、そういう性能の車両を全電動車編成で走らせるのは非常に非効率であるため、徐々にモーターの付いていないトレーラー車を挟むようにしていき、最終的にはモーター車10両で走るつもりだったのが、モーター車6両+トレーラー車4両という形に落ち着いた。

効率良い形式を

 もともと全電動車編成を想定してモーター(MT46A)などの仕様を決めていた為に、モーター車が減ることでモーターに対して負荷が高まり、余裕のない状態となっていた事から、モーター車とトレーラー車の比率を1:1程度にしても充分な性能を有する形式への要望が高まった。
 この構想自体は101系を6M4T(6両のモーター車・4両のトレーラー車の意味)にするようになった1959(昭和34)年末頃に既に関係部署では上がっていたようで、国鉄運転局は1906(昭和35)年2月に「通勤電車の問題点」という小冊子を作り、101系の問題点を出しており、今後の通勤電車としてどういう物が求められているかを提起している。
 首都圏の電力供給量は、編成が10両編成で運転間隔が2分運転という、最大上下線を合わせて1時間あたり600両という車両が通過することを前提に考えなければならない。
 民鉄の多くて1時間400両程度しか走らない線区での高性能電車と同じスペックを望むと膨大な設備投資が必要になるため、国鉄では民鉄で言う所の高性能車を走らせるだけのインフラが無いと言う事を101系の運転開始後にいやが上にも知る事になった事から、新形通勤電車は国鉄線をきちんとフルスペックで走れる設計が求められると共に、電力回生ブレーキなどの技術を取り入れる事が可能かどうかも平行して開発をすすめた。
  後世に103系が民鉄高性能車に比べておとなしいスペックであることを批判するような記述が多く出回ったが、それは当時の実情をリサーチしてない戯言と言って良く、当時の実情をしっかり見据えて居れば、103系以上のスペックの車両が営業運転できなかった事は簡単に察しが付く。
 これらを踏まえて、実際に国鉄線上を効率良く走れる形式として作られたのが103系電車である。

救世主として

 101系が大々的にデビューした割りには使えないと判断されたのが早かった事を考えると、次期通勤電車は是が非でも成功させなければならない。 車両設計では異例の工作局や電気局・運転局などが協同して103系の開発に当たったのは、失敗を繰り返せないという部分が大きかったと推測する。
 上でも少し書いたが、民鉄などの高性能電車は起動電流を大きく取って加速度を高める事ができたのだが、それは1時間当たりの運転車両数の少なさがなせる技であり、民鉄の高性能車をそのまま国鉄線で走らせるのは無理があるのだが、どうしても車両のスペックだけを見るケースが多いので、走れるかどうかまで鉄道趣味界できちんと精査した方が少なかったので103系のスペックに異論を付ける方もチラホラ見られるが、実際に諸問題を照らし合わせると103系以上の物が設計できたかどうかは甚だ疑問なのである。
 そうして、103系は工作局・運転局等による調整のもとにすすめられていくが、諸問題を解決するには多少時間がかかり、基本設計がまとまったのは1962(昭和37)年2月であった。

Copyright(C) Nobuyuki Nagao,All Rights Reserved.