5分でわかる103系

1.当時の実状

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岩戸景気と通勤地獄

所得倍増計画下の通勤輸送

 1958年から始まった岩戸景気※1は、郊外への住居移転というドーナツ化現象を誘発していた。その結果として都心に向かう通勤路線の朝ラッシュは、まさに通勤地獄と呼ばれる様相を呈し「酷電」と呼ばれて次第に社会問題となってくる。
 1961年初めには東京の通勤問題について新聞等で大きく報道されるに至り、当時の政治家も査察のために当時最も混むと言われていた中央線に試乗したりしているが、抜本的な解決方法は提示されず、利用者に「時差通勤・時差通学」を推奨する以外に方法はなかった。

一両でも多くの通勤車両を

 国鉄では1957年末から第一次五ヶ年計画を発動。戦前の車両や老朽化した施設の取替え、輸送力の増強などを盛り込んだが、実際には作る車両は全て輸送力増強に回され、戦前・戦中製の老朽化した車両の取替えはほとんど行われなかった。また、多くの路線で増結や増発を行っているが、慢性的に乗車効率が300%近くになっており、抜本的な解決には新たに線路を増やすしか無い状況にまで追いやられていた。各路線ではとにかく一両でも多くの車両をあてがって貰いたかった時期でもあるが、予算の都合もあり必要最小限の車両数しか割り当てられず、一向にラッシュ輸送は緩和されない状況が続いていく。

高性能電車による解決と失敗

 国鉄では1958年から高加速・高減速を謳った101系通勤形電車を登場させ、ラッシュ対策の救世主として投入する。この車両は全車両が電動車で、今までの車両に比べて倍の加・減速度があり、その性能をフルに活かすと、今までの車両に比べて運転間隔を詰めて走らせる事ができた。しかし、いくら車両を高性能にしても、給電設備などのインフラが整っていなければその性能を十分に発揮できず、101系は常に性能を殺しながら走る事となり、高価な電動車ばかり揃えているメリットが全く無くなっていた。これは、限られた予算内で一両でも多く車両が欲しかった状況を考えると非常に無駄な投資であり、1958年末からは全電動車編成をあきらめ動力を持たない車両を編成に組み入れ、製造できる両数を増やす施策がとられた。

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